時代の風




○私塾・建築講義(1) 〜 「私は、[だがアーキテクト]、である」 〜

1.アーキテクトの考究
私は、建築を学問として習ったことがない。だから私は、建築学を講じる学者ではない。
私は、建築の本質について歴史的・思想的・哲学的に論考したことがない。つまり私は、建築家ではない。
私は、建築を実務として設計したことがない。すなわち私は、建築士でもない。

―――「私は、[だがアーキテクト]、である」と思っている。

『私塾・建築講義』は、建築学者でも建築家でも建築士でもない者が、「私は、[だがアーキテクト]、である」という認識に立ち、
[だがアーキテクトである]ことの社会的・実存的意味合いを手探りするための“考究の場”にすぎない。
したがって、この場は建築学を系統立てて学ぶ場所ではないし、建築設計に代表される建築実務を演習するところでもない。
いわんや、建築学領域のどれか一つのテーマを研究する場からは遠い。
あえて、『私塾・建築講義』の目的を一つだけ挙げるならば、それは

[建築家が脱主体化した存在としてのアーキテクト]

を構想できるかどうか、問いを発することだと思っている。

クリストファー・アレグザンダーが『都市はツリーではない』を発表したのは、今から約40年前、1965年のことだった。
その論文中にツリー構造とセミラティス構造という抽象的な構造名称が登場する。
建築家とアーキテクトの存在は、ちょうどこのツリーとセミラティスに対比できるのではないかと考えてはいる。
少なくとも、この両者は入れ子構造ではない、というスタンスから論考を始めたい。
[参考]ツリーとセミラティス
ツリー構造では各エレメントは一義的で重なり合わない。
一方、セミラティスでは各エレメントがさまざまな集合に属し、多様な意味を持つ。
(山本理顕編『私たちが住みたい都市』、平凡社2006年1月、キーワード252ページ)



2.アーキテクトと建築家
建築家の磯崎新が、社会学者であり首都大学教養学部准教授の宮台真司との討論の中で、次のような興味深い発言をしている。
(2004年4月工学院大学、連続シンポジウム第4回「国家」)

“宮台さんのお話の中に「アーキテクチュア」という言葉が何回も登場しています。
この「アーキテクチュア」というのは、我々が今言っている建築家とか建築とちょっと違う使い方なのだけれども、言葉は一緒です。
恐らく「アーキテクチュア」の語源というか正確な意味は、今、宮台さんが使ったようなさまざまな意味を持った概念なので、
それは「アーキテクチュア」としては正しい表現の仕方だと思います。
我々建築家がやっているのがアーキテクチュアなのではなくて、アーキテクチュアという概念のごく一部分の
コンストラクションとかビルディングというか、それにかかわっている職業をやっているのが建築家にすぎないのです。
ですから、いわば建築家という表現は僭越な表現であって、実はごく一部しか建築についてはやっていない。“


ここでの磯崎新は、建築家とアーキテクチュアを峻別して使っている。
その使い分けは、アーキテクチュアという様々な集合属性を持つ多様な概念の中で、建築家はほんの一部に携わっているだけだというニュアンスである。
ただ、疑問が残る。
それは建築家とアーキテクチュアを正面から対比していることだ。
建築家はもちろん人間であり、この日本語に相当する英語であれば[アーキテクチュアArchitecture]ではなく、[アーキテクトArchitect]である。
無論、磯崎新がこんな誤用をするはずはない。
何か深い彼なりの意図があって、異質の言葉である建築家とアーキテクチュアとを対比させているのだろう。
上の発言に引き続き、彼はこう展開している。

“僕は、建築家というのは前途洋洋としていると思う。なぜならば、ビルディングなどやる必要はないわけ。
コンピューターの設計をやっていればいい。
(中略)
空間はつくっていない、建物もつくっていない、だけど建築家なのだよということになっていくだろう”


二つの発言を比較すると、あらためて磯崎新の言葉の用法に混乱させられる。
もし前段が意図的に[建築家]と[アーキテクチュア]を対比させたのであれば、後段の[建築家]はすべて[アーキテクチュア]と置き換えるべきだ。

つまり、「前途洋洋としているのは、[アーキテクチュア]であって[建築家]ではない」とすれば、二つの発言は首尾一貫する。
ここに私見を加え、[アーキテクチュア]という言葉を人物を指し示す[アーキテクト]と読み替えてよいならば、
「これから先[建築家]は不要になるかもしれないが[アーキテクト]の将来は前途洋洋である」とすることができ、
磯崎新のいいたいことがすっきりわかる。

論より証拠。次の発言ではこう述べている。

“職業として、あるいは今ある社会の制度の中での建築家、あるいは社会の中で商売をやっている建築家というのはもう長持ちしない”

磯崎新の発言について、上に記した私の解釈が間違っていなければ、磯崎発言は私がいうところの「私は、[だがアーキテクト]である」を支持してくれる。
では、将来が前途洋洋としている“[建築家]ならぬ[アーキテクト]”とは何か?
これを読み解いていくことが『私塾・建築講義』の目的であることは、先に記したとおりである。




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