時代の風




○私塾・建築講義(6) 〜 場所とアーキテクチュア 〜

1.場所とアーキテクチュア
空間への異なる認識は、場所の変革に繋がると書いた。
空間が何らかの特定を受け、"場所"として認知される時、人間は固有の空間としての場所に意味を見出そうとする。
それは、人間が本来的に地理的な存在であるからだ。地理的に存在しているからだ。
地理学は、大地において物と人がどのように配置されているかを考察する。
フランスの風土学者であるオギュスタン・ベルクによれば、
[そこ]と[そこにある]が構成されることなくして存在論はありえず、存在論について語るためには人間であることが求められる。
ここでの[そこ]は二つとない場所である。

プラトンの著作『ティマイオス』には「場所(コーラ)の理論」が述べられている。
プラトンは存在を二つに分類する。
ひとつは無時間的・無空間的な形相、つまり有名な"イデア"である。イデアは絶対的存在であり、知性だけが認識できる。
二つ目は相対的存在またはその生成である。これは感覚で認識できる。
だが、プラトンはこれに"コーラ"と呼ぶものを加える。
『風土学序説』(A.ベルク、筑摩書房、2002年1月)によれば、コーラは知性だけに関わるものではなく、また感覚だけに関わるものでもない。
コーラを見るのは夢を解釈するようなものとされている。コーラは常にすでにそこにある。生まれたり死んだりしない。
それでいて存在ではない。存在するものに刻印する母型である。
つまり、存在の風景といったものだ。

一方、物が位置する場所を表現するとき、プラトンは“トポス”という語を使う。
トポスはある物体が存在する場所であり、物体の構成と分けて考えることはできない。

このように物体の物理的な場所はトポス、この場所の基礎となる存在論的な特質をコーラ
と呼んで区分したのがプラトンである。

次はアリストテレスである。場所についてのアリストテレスの理論は『自然学』に述べられている。
場所とはなにでないか、彼はまずそれを明らかにする。
まず、場所は形相ではない。なぜなら形相とは物について用いる語であり、場所とは物を包む物体だからだ。
場所は空間ではない。なぜなら本性上それ自体で存在し、じっと動かない空間があるとすれば、同じもののうちに無限定の場所があることになるからだ。
場所は質料でもない。なぜなら、質料は物から離れて存在するものではなく、そのものを包んでいる物でもないが、場所はその両方だからだ。

場所は、包む物体の限界でなければならない。包む物にもっとも近い不動の限界である。
このアリストテレスの理論をまっすぐ進めると、ハイデガーが“位置”という概念で表わした場所の現代的概念に到達する。

まず場所は物から分離できる。物は動くが場所は動かない。そして場所は物の限界である。
これに対して、コーラはそこにあるものに参与する場所であり、動的な場所であり、そこからなにか異なるものが生成してくる。
ところが、トポスはその存在の同一性のうちに物を包み込む場所であり、コーラとは違う。

アーキテクチュアにおける場所の概念に即して言うならば、トポスは別の場所にあることもできたはずのアーキテクチュアを自由に位置づけすることができる。
ところが、コーラはまったく正反対である。みずからの場所と分離できないアーキテクチュアであり、その結果人間の風土を作り出すアーキテクチュアである。

トポスは地理学的な場所、コーラは存在論的な場所である。

よく「アーキテクチュアにとって場所の解釈がたいせつだ」と言うのを聞く。
このときの場所とは、トポス的場所なのか、それともコーラ的場所なのか。これを明らかにしてみよう。

「場所の記憶」という用語がある。哲学者エドワード・ケーシーが説いた。
ケーシーによれば場所の記憶とは、

・経験の容れものとして場所を安定的に存続させるもの
・元から内在しているその記憶されるべき事象に力強く作用するもの

である。
記憶とは、元来場所に帰結する、あるいは少なくとも場所を支援する。ここで用いられている場所は、より"コーラ的"である。存在論的である。
場所の記憶とは、そこに存在するものに作用する動的な場所によって、何か質の異なるもの、つまり記憶を生成していることである。
「場所の記憶」は、空間と場所のちがいを鮮明に物語る。
つまり、場所には空間にない二つのものがある。
それは

・経験がなされること
・もとから何かが存在すること

の二つである。
空間にこれら二つが加わると場所になる、と言い換えてもいいだろう。

かくして、アーキテクチュアにとってたいせつな要素は、空間ではなく場所であることが如実である。

では、アーキテクチュアにとっての場所とは何か、これが次の解決課題である。
これまで触れたように、場所にはトポス的なものとコーラ的なものとがある。
このうち、地図学的である場所がトポス、存在論的なものがコーラであることも述べた。
以下では、実存的空間と建築的空間との相関、そして建築的空間が存在論上で建築的場所になりうるかどうかに注目するため、コーラ的な場所とアーキテクチュアの意味づけを試みる。

建造物が周辺環境との応答関係を失い、孤独に沈潜する"閉じた箱"に過ぎないとするならば、それはアーキテクチュアではないというのが私の意見である。
アーキテクチュアというものは、ひとたび出来上がれば人間にとっての環境であり、その環境は言語が構築する環境と同じである。
感受性を明確かつ精妙にする力をもっているし、意識を鋭く大きくする力を持っている。
つまり、アーキテクチュアは「教える」。 コーラはもともとその場所に存在している特質である。
それとの関係でいえば、アーキテクチュアが「教える」のは、その場所にもともと刻印されていた母型でなければならない。

コーラを顕在化する力があるものだけがアーキテクチュアなのだ。

単純な場所の解釈、つまり場所の地理的・地図的・地勢的性質の文脈を読むだけにとどまるならば、その構築はビルディングではあってもアーキテクチュアにはなりえないであろう。
なぜなら、それは物を包む限界としてのトポス的場所を翻訳する行為にすぎないのだから。

もう一つ、コーラ的場所とアーキテクチュアの拮抗について考えておく。
コーラは「つねに、すでに、そこに」ある。それは生まれたり死んだりしない。存在もしていない。存在の風景である。
一方、アーキテクチュアは存在する。物質であり、実存の本体である。生まれたり死んだりする。「つねに、すでに、そこに」あるものではない。
このようにコーラとアーキテクチュアは拮抗する。
だが、ここに時間概念を導入すると様相は変わる。アーキテクチュアを時間的に経験する。建築的空間を時間的に体験する。
コーラを顕在化する力をもつアーキテクチュアであれば、その時何か異なるものを生成する。
それは、アーキテクチュアによるコーラ的場所への新たな働きかけであり、場所の母型あるいは存在の風景との融合であり、その場所と分離できないコーラの本質にアーキテクチュアがさらなる記憶を刻みこむ瞬間の誕生である。






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