○私塾・建築講義(7) 〜 アーキテクチュアと社会 〜
1.アーキテクチュアと社会
かつてルイス・マンフォードは、
「どんな建築も生まれた瞬間から社会の中に置かれ、その存在自体の責任を問われる」
といった。
無論、社会の中に置かれない建築は皆無である。
だが、社会に対して応答せず、閉じたままの箱になっている建築は多い。前にも書いたが、こうした建築を私はアーキテクチュアであるとは思わない。
社会に対するアーキテクチュアの存在責任とは何だろう。
一つは、アーキテクチュアは"大地の上に存在する"だけでなく、"天の下に存在する"ものでもあるという視点だ。
形而上でもあり形而下でもあって、ちょうど社会の交差点のようなものだ。その時代の社会の無意識を探っているようでもある。
「デザインすることは翻訳することに似ている」と誰かが言っている通り、
アーキテクチュアは技術という非情な事実を駆使して曖昧な人間の心を造型という言語で置き換えているデザイン作業ともいえる。
であれば、アーキテクチュアの社会に対する存在責任の第二番目は、この翻訳作業が社会の無意識に適ったものかどうかというところにある。
そこに建造されるアーキテクチュアが勝ち過ぎれば、志す方向は広がりを失って孤立する。すなわち、単なる閉じた箱になる。"天の下に存在している"だけである。
一方、トポスやコーラなど場所の持つ固有の形質や本来性が勝ち過ぎれば、アーキテクチュアは未来への道筋や想像力を失う。
つまり、アーキテクチュアが「教えない」。"大地の上に存在している"だけである。
地形の論理と物質の論理、このいずれが勝ち過ぎても社会の交差点の機能を果たすことができなくなる。
その時、アーキテクチュアによる翻訳作業は失敗におわる。
アーキテクチュアは構築において社会を反映することから免れることができない。アーキテクチュアとは、“部屋の社会”といっても過言ではない。
ここで社会というとき、それはほとんどの場合制度である。アーキテクチュアの構築は、制度の反映なのである。
制度から逸脱する構築は、社会からはじき出される。つまり、アーキテクチュアは制度から自由でないどころか、制度の誠実な具現でしかない。
多くの公共建築や文化施設、工場や倉庫、あるいは集合住宅や一戸建住宅にいたるまで、アーキテクチュアの構築は制度を忠実に反映しなければならない。
学校とは、病院とは、美術館とはこういう用途のためのもので、その用途を満たすためにはかくかくの機能を有する必要があって、
だから構築の基準や制限はしかじかの規制や条件を満たす必要がある。
これがアーキテクチュアを縛り付ける現実である。
アーキテクチュアはそこから一歩も踏み出すことができずにいる。
だから、美術館はいまだに白い壁に額縁の絵画を展示する装置以外のなにものにもなっていない。
画家は、彫刻家は、果たして自分の芸術がこのように画一的な箱の中で画一的に展示することしかできないアーキテクチュアを歓迎するだろうか。
同様の指摘は、他のいかなるアーキテクチュアに対しても向けることができる。
オフィススペースしかり、集合住宅しかり、個人の住いもまたしかり。
初めに用途の指定があり、次に機能の分解や統合あるいは調節が定まり、人々は所定の空間の中で所定の行動をとる“アーキテクチュアの所産”という視点でしか見られない。
だが、現実が示すとおり、アーキテクチュアが人々に与える空間は、人々がそこでの時間を経験することによって、
所与の形態や空間と行為の関係からはほど遠い“行為の仕方”を取る。
皮肉なことに、アーキテクトの意図とは異なるこの“行為の仕方”が経験されることによって、単なる建造物がアーキテクチュアに変革を遂げているのが現実なのである。
残念ながら、アーキテクチュアと社会のもっとも重要な関わり方はこのように消極的なものである。
アーキテクチュアは社会の反映であり、社会の基盤や支援は制度によって援護されている。
制度とは国であり、地方においては自治体政府である。
一例を挙げよう。
学校は、「教育」の「場」だと言われる。したがって「教育」とは何かをどう考えるか次第で、その「場」をどうつくるかは変わってしまう。
この場合、「場」はトポス的な場所ではなく、コーラ的な場所である。
つまり、「場」が本来的に存在できる質を追求するためには、存在のゆえんである「教育」をつきつめる必要がある。
だが、アーキテクトには「教育」を自らの意思で表現する自由は与えられていない。
アーキテクトに許されるのは、文部科学省が「教育」として考えた“制度”を「場」に翻訳する自由だけである。
ここでもアーキテクトは単なる翻訳家に過ぎない。
制度の僕にすぎない“建造物の構築”という表現行為によって、アーキテクチュアを成立することはこんなにも難しい。
一方で、ルイス・マンフィールドの言葉の通り「存在自体の責任を問われる」のがアーキテクチュアである。
このようなアンビバレントな制約の中で、アーキテクチュアが社会に向けてできることは何だろうか。
これを問うことによって、積極的な意味でアーキテクチュアと社会の関わり方を解明することができる。
中崎隆司という建築評論家が書いた『建築の幸せ』(建築の幸せを出版する会、2006年3月)という本の中に、“グー・チョキ・パーの建築”という一節がある。
“グー”の建築とは、社会に対して閉ざされた箱である。社会との接点に背を向けた建築という意味であろうか。
ともかく内部の空間と外部の環境のあいだに連関が少ない建築なのだと、私はかってに解釈した。
“チョキ”の建築とは、異形の建築である。奇をてらった建築である。
時にピクチュアレスク、時にアーティスティックを気取っているが、社会に対する存在責任を配慮していない建築であると私は解釈した。
“パー”の建築は、これらに反し社会に対して“開かれた箱”であると中崎は言う。
“開かれる”ことについての具体的なイメージをこの書は浮かび上がらせていないが、何となく想像はできる。
それは第一に、アーキテクトが制度に対する反逆を試みたアーキテクチュアではないということだ。
つまり、“チョキ”の建築は最適解にはならない。
次に、アーキテクトが制度を最小条件として仕方なく反映したアーキテクチュアでもないということである。
それは、“グー”の建築の否定につながる。
アーキテクチュアが社会に対して行える唯一の解、それが残された“パー”の建築ではないだろうか。
すなわち、社会に対して“開かれた箱”を建造する表現行為ができたとき、建築は初めてアーキテクチュアに昇華される。
では、“パー”の建築=アーキテクチュアとはどんなものだろう。開かれた箱とは何だろう。それを次に考えてみたい。
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