時代の風




○私塾・建築講義(8) 〜 “パー”の建築=アーキテクチュア 〜

1.“パー”の建築=アーキテクチュア
デザインによる翻訳が時代の無意識を表現しているかどうか。
これが、“パー”の建築=アーキテクチュアとなりうるかどうかの分水嶺ではないかと思っている。
そこで、手始めに時代の無意識とは何かということを探ってみたい。

無意識とは、顕在化してはいないが人々の心の深層には意識されているものである。
「意識がない」という意味ではなく、「表層意識が関知できない心の動き」ということだ。

無意識に関わる研究を最初に始めたのは、心理学者ジグムント・フロイトであった。
フロイトの研究は、抑圧された無意識を表層意識に浮かび出させ、さまざまな神経症状を治癒させるという方法で成功を収めた。
フロイトの弟子であるC.G.ユングは、フロイトの無意識をさらに進化させ、「心」を三つのレベルに階層化した。
コンノケンイチ著『ユングは知っていた』(徳間書店、1998年10月)は、それを次のように解説している。

1.「自我意識」(表層意識):
   私たちが思うがままにすることができる。が同時に、“危うさ(主観的な間違い)”、“不誠実さ(忘れること)”、“不確かさ(錯覚)”が同居する領域
2.「深層無意識」:
   自我意識が手を出すことができない未知で神的な領域
3.「集合的無意識」:
   最も深層に存在する元型・原始心像

このうち、関心を寄せるべきは「集合的無意識」である。
1945年のノーベル物理学賞受賞者であるパウリは、ユングの集合的無意識に対する深い共鳴者であり、共時性に関するユングの論文の共著者である。
パウリは『物理と認識』(講談社)の中で、ユングが1946年からこの集合的無意識の考え方に“断乎たる変更”を加えたという。

湯浅泰雄著『共時性の宇宙観』(人文書院、1998年7月)によれば、ユングはそれまで集合的無意識を時間に即して考えてきた。
つまり無意識の根底には、心の遺伝ともいうべき構造がそなわっているという考え方である。
そういう心理的遺伝を個人から集団に拡大すれば、民族(コミュニティ)全体の性格となるだろう。
つまり、集合的無意識は時間に即してみれば歴史的無意識とよべる。

パウリがユングの“断乎たる変更”と呼んだのは、このような集合的無意識をユングが空間にまで拡大した点である。
心身の限界を超えて広がる集合的無意識を時間ばかりでなく空間に即して考えていくということである。
このことは、たとえ意識が自覚していなくても、無意識はまわりの世界に情報を送っているし、送られてくる情報をキャッチするネットワークが潜在していることになる。
であるならば、アーキテクチュアが時代の無意識を的確に翻訳するということは、時間的・空間的に広がっていて心身の境界を超える情報のネットワークをキャッチすることにほかならない。
それは“シンクロニシティ”と呼ばれる共時性を把捉することでもある。
シンクロニシティは、
「意味のある同時生起、意味をもつかのようにむすびあわされた偶然のパターン」
(Tom Chetwynd, A Dictionary of Symbols, Granada Publishers, 1982)
と定義されている。
ハウスメーカーやマンションデヴェロッパーが行うアンケートやマーケティングからシンクロニシティを探求できそうにもないことは明らかである。
なぜなら、それは「売らんかな」を金科玉条とする造り手側の顕在意識にすぎないのだから。
また、アーキテクトたちが行う近未来のライフスタイル予想もシンクロニシティの探究には役立ちそうにない。
これも供給側の顕在意識が消費側の顕在意識に働きかけようとする推測にほかならないからである。

では、シンクロニシティの探究についてアーキテクチュアは無力であろうか。
結論を先に書くと決してそうではない。さまざまな科学的アプローチがそれを証明している。
オーストリアの生物学者パウル・カマラーは、もっとも早い時期(20世紀初頭)に偶然の本質を探求しようとした科学者の一人である。
カマラーは数百にのぼる偶然の一致を記録に残し、さまざまなパラメーターにしたがって分類し、そのデータを統計的に分析している。
(F.D.ピート著『シンクロニシティ』、朝日出版社、1996年8月)
カマラーはこの結果にもとづき、系列性という普遍性を示す。
それは
「系列の各要素が―――注意ぶかい分析によって確認されうるかぎりにおいて―――同一の動因によってむすばれているわけではないのに、 それらが空間・時間内で規則的に再現されたり連続したりすること」
である。
これを拠り所にしてカマラーは次のような仮説を立てている。

・あるできごとは、包括的なかたちやパターンにはともに所属している別の偶然のできごとに親和性を示す
・系列性は非因果的連続の影響力のもとにおこる
自然にはかくされた調和、もしくはモザイク模様が存在する

この系列性は、地上に残るアーキテクチュアの中に発見することができる。
一つは、フランスのブルターニュ地方、モルビア県のカルナック付近に存在する“列石”と呼ばれる石柱群である。
この付近には石塚やドルメン、メンヒルなどの石の記念碑がある。
もう一つは中国の甘粛省蘭州付近の墓地である。
鳥瞰すると、イサム・ノグチによる地表の改良計画「段丘状遊園地」を思わせると言われている。
(B.ルドフスキー、『建築家なしの建築』、鹿島出版会、2004年3月版、以下の事例も本書より引用)

また、ある種の非線型方程式にみられる特性のひとつに、ソリトンというものがある。
これは部分がいかに全体の表現としてあらわれるかを示してくれる。
ソリトンは「孤独な波」と呼ばれ、世界の基本的実体あるいは独立した単体がもつあらゆる外見をおびている。
全体というコンテクストをみうしなうことなく、システムを独立した各部分に分析することを可能にする。

ボールト(円筒天井)を架けることが建てることとほぼ同義語になっているイランでは、
上空から眺めるとボールトという“部分”を通じて一つ一つの建物の内部構成がはっきり読み取れ、
しかも“全体”としての街がコンテクストをみうしなうことなく集合している。ここでは、神殿も住居も街路さえも波打つ屋根で覆われている。

非線型数学が示唆するイメージでは、宇宙はただ一つの分割されない全体であり、そのパターンとかたちはある基底から生じ、またもとの場にもどっていく。
したがってこの意味では、シンクロニシティにおいてみられるモノとこころの展開パターンは、じつは同じ一つの活動からあらわれてくるものだということになる。
これまでに掲げたアノニマス(無名)でバナキュラー(風土的)であるアーキテクチュアに共通しているのは、
このようなシンクロニシティがコミュニティにおいて自発的に形成された結果ではないか、というのが私の憶測である。

非線型的世界では、線型的世界のように要素の秩序づけと配列によって構造がつくられることはない。
換言すると、非線型世界には線型世界における“建造物”がない。
その代わり、絶え間ない変化のプロセスを通じて維持されるシステム(形式)を発展させていくことができる。
例えば、噴水がその形を保ち続けるのは、その水がけっして同一ではないからだ。
これを散逸構造と呼んだのは、『混沌からの秩序』(みすず書房、1987年6月)の著者であるイリヤ・プリゴジンである。
散逸構造は、システムそれ自体の表現であり、外部からの構築行為を必要としない。
自己充足しており、それ自身の意味を含み、全体としてのシステムがもつ意味を明示する。
それはちょうどパンタリカ[Pantalica]の穴居人の街のように、構築は加えていないが自己組織化していて、しかも全体としてコミュニティというシステムをつくり上げているアーキテクチュアに似ている。

このほか、シンクロニシティを想起するような科学的発想には、 デイヴィッド・ボームの“内蔵秩序”や“変形菌”の集合的性格、あるいは“電子ガス”などがあるが、紙数のつごうでいちいち取り上げることはしない。

もう一つ、どうしても取り上げたいのが“”である。
易を科学というべきかどうかは別であるが、ユングのいうシンクロニシティと易とでは、どちらも「時」が重要である点で共通する。
この場合の「時」とは、時機あるいは状況を意味する。易の占いは、現在という時点において過去と未来を知ることである。
易は、だから時間にかかわる一種の世界認識の方法であり技術である。
身体の感覚器官は、現在しか知ることができない。
つまり、五感は周囲の空間的事物の状態を現在において認知する器官である。
このことは、人間が過去と未来を知るのは心のはたらきによることを示している。

これに対して、易は感覚だけで未来状態を推理するものではない。何らかの経験的データは与えられている。
しかし、未来を占うことは経験的データから未来状態を推測するものではなく、むしろ直観によって未来を知ることを意味する。
その直観のはたらきは、もしあるとすればだが、むろん感覚器官にあるのではない。
また知的意識の中にも見出せない。あるとすれば、無意識の領域に貯えられている記憶を呼び戻すところからである。
無意識は心の領域の深層部分である。
その意味で易は無意識に拠る直観から未来や過去の空間的事物の状態を知ることである、と定義できよう。これはシンクロニシティにほかならない。

以上で検証してきたように、アーキテクチュアが時代の無意識を表現するための科学的方法はいくつもある。
それは、シンクロニシティを探究することであり、そのための技法として次のようなものがあった。

・系列性
・ソリトン
・散逸構造
・内蔵秩序
・易






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