時代の風




○私塾・建築講義(4) 〜 アーキテクチュアの意味論 〜

1.アーキテクチュアは芸術ではない?
第2回の講義ノートで、私は下のように書いた。

“ビルディングは芸術ではなく、意味も持たない建物である。「意味」に先立って「用」をなす。
一方、アーキテクチュアも芸術ではない。だが、それは意味を担わされた文化である。
「用」に先立って「意味」をなす。”


 ここで私は二つの断定をしている。
アーキテクチュアは芸術ではないというのが一つ目。
もう一つは、アーキテクチュアは意味を担わされた文化であるという断定。
この二つの断定が当を得たものかどうか、以下で追ってみることにする。

 初めは、アーキテクチュアは芸術ではないという断定についてである。
これに論及する前に、英語の世界におけるアーキテクチュア、すなわちArchitectureについて考えてみたい。
 カタカナで“アーキテクチュア”と表現する場合には、誰もそこらへんに転がっている醜悪な建物を想定していない。そこには不文律の垣根がありそうだ。
それはどんな垣根なのだろう。

 日本語には建築士と建築家の二つがある。あるいは設計士という肩書きまで含めると三つになる。
ところが、英語には一つしかない。それはArchitectという単語である。
他面、日本語では構造設計や設備設計を担当する人々も建築士と呼ぶ。
だが、英語ではこれらの設計者をArchitectとは呼ばない。Engineerと呼ぶ。
また、日本では建築家が都市計画を行う場合も多いが、英語では都市計画を行う職能はPlannerと言われており、Architectと呼ばれることはない。ただ、兼業は実在する。

さて、不文律の垣根に話を戻そう。
日本語のカタカナでアーキテクチュアとあらわす場合、潜在的に“建築家がデザインした建物”を意識していることはないだろうか。
例えば、私は私の自宅を住居とは思っているがアーキテクチュアであるとは思っていない。
私がそう思わない理由はいくつかあるが、最大の理由は建築家がデザインした建物でないからだ。
この国で「私は住宅の設計をしております」と自己紹介したと想像しよう。
この自己紹介だけでは誰も「じゃ、あなたはアーキテクト(日本語でいうところの建築家)ですね」とは言ってくれない。
せいぜい設計者、良く思われて建築士と認識されるのが関の山である。
にもかかわらず、この国には建築家を名乗る人々がいる。通常、これらの人々は自分を設計士とか建築士呼ばわりされることを嫌悪する。
肩書きにも堂々と建築家と書く。建築家にとって、建築士や設計士は自分に対する蔑称にほかならない。

英語では設計士も建築士も建築家もみんなArchitectである。
だが、日本語ではこれだけのこだわりが発生する。
そして建築家と建築士には明々白々とした差別まで派生する。
その一端として、建築家が設計した建物は「作品」と呼ばれ、作品の意味論が展開される。
空間の形態や細部の造作に意味付けがなされる。
時には審美的な芸術性まで論議される。
一方、単なる建築士が設計した建物が作品呼ばわりされることはまずない。まして芸術性の論議など沸き起こる可能性は皆無である。

はたしてアーキテクチュアには「作品」などというものが存在するのだろうか。
そしてそれらの「作品」には意味や芸術性が内蔵されているものだろうか。
内藤廣は『建築的思考のゆくえ』(王国社、2004年6月)の中で、

「建築家が自分の仕事を作品と呼ぶのがきらいだ。作品といえば、芸術のようでもある。
そのいかがわしさを建築という価値が帯びるのがいやだ。
(中略)
時間を生きることこそが建築の本来的な価値であり、他の領域にない際立った特質ではないか。
だから、建築は作品のようでなくてもよいと思っている。
(中略)
それに過度に固執することは、建築から時間を排除することにつながる」


と述べ、建築が作品と呼ばれること、そして建築が芸術性を帯びることをはっきりと拒絶している。
また、アンドリュー・バランタインは『建築』(岩波書店、2005年9月)において

「「建築」とは「すぐれた建物」と同義なのではなく、すぐれているいないに関係なく、建物なら何であれそれがもっている文化的側面」

とし、

「建築とは、建物それ自体が持つ属性ではなく、建物が一つの文化の中で経験されるときに持つ属性」

であるとしている。

二人の記述は同じではないが、「芸術」あるいは「すぐれた建物」という表現によりアーキテクチュアから「作品性」を敬遠していること、
及び「時間」もしくは「経験」という言葉によりアーキテクチュアの本質的価値がモノ以外にあることをほのめかす点で通底している。
一方、環境権という公共意識のカテゴリーにおいて、アーキテクチュアの芸術性をめぐる論争が生じている。
カリフォルニア大学バークレー校のジョセフ・サックス教授(法律学)の『「レンブラントでダーツ遊びとは」』(都留重人監訳、岩波書店)には、
ルイス・カーンの設計で知られるソーク生物学研究所の増築をめぐる論争が紹介されている。
その論争の理由が、アーキテクチュアを所有することがアーキテクトという芸術家の作品を所有することとみなされるからというから驚きである。
まるでピカソの絵を所有しているのと同じ感覚である。
この論争は、私の感覚には決してなじまない。
なぜなら、アーキテクチュアに芸術性を付託することは、中世に対するノスタルジアに過ぎないというのが私見だからだ。
つまり、彫刻や絵画が自立できずアーキテクチュアに付属していた時代には、確かにアーキテクチュアに芸術性を付託した時期があった。
それでも、この芸術性はアーキテクチュアという構築物に付託された属性ではなく、
アーキテクチュアと彫刻や絵画が一体化した空間全体に対して付保されていたというのが私の見解である。

つまり、絵画や彫刻がアーキテクチュアから自立して離散した後は、アーキテクチュアに芸術性を求める欲望そのものも消えてしまっている。
いまさら芸術性を強調することはアナクロニズムではないだろうか。
実際、構造の機能美を競った近代建築、その粋であるシーグラムビルや世界貿易センタービルのどこに芸術性を見出すことができるだろう。

アーキテクチュアの発祥にあって造型は世界共通であった。
それが四大文明あたりから大航海時代にかけて造型のデザイン振幅は最大化する。
その後を受けた近代建築は、合理性の追求という世界標準をひっさげて、再び世界の造型を収斂していった。
そこに装飾を中心とする芸術は入り込む余地はなかったと考えるのが普通である。

つまり、テクノロジーが彫刻や絵画の自立を促し、しかも世界標準設計を現実化していったと見るのが近代建築に対する私の観察眼であり、
それゆえにアーキテクチュアは芸術ではないというのが私の断定の根拠である。


2.アーキテクチュアは文化である
次は、アーキテクチュアは意味を担わされた文化である、という断定。
文化とは、人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果であり、生活形成の様式と内容を含む。
ただ西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、文明と区別する。
アーキテクチュアは西洋からの輸入語である。だから、アーキテクチュアについて考える場合、西洋の考え方に準じることは自然である。
よって、ここでは文化とは人間が自然に手を加えて形成し、人間の精神的生活にかかわるものであると定義する。

多くの建築論が「アーキテクチュアとは何か」という設問を講じている。
その中からアーキテクチュアと文化について言及しているいくつかを引用してみよう。
例えば、『建築』(A.バランタイン、岩波書店、2005年9月)は、
“建築とは、建物によってなされるジェスチュア”
であり、
文化的側面に注目したとき初めて建物は「建築」として見られる
と述べている。

また、『空間の経験―身体から都市へ』(イーフー・トゥアン、ちくま文芸文庫、2002年4月)の中では、
“建築家は、文化のイメージを創造する”(Langer, Feeling and Form)
というランガーの言葉を引いている。

さらに、『建築造型論ノート』(倉田康男、鹿島出版会、2004年9月)では、
[建築]は[文化の容態の表象の一形式]であり、[文化の容態]とは[世界の読み取り方の様式]である”
としている。

いずれもアーキテクチュアは文化を創造あるいは表出するものであり、世界を解釈した様式を形態として表現する、という説明である。
これらの解説は、文化とは「人間が自然に手を加えて形成するもの」という一面だけを照らせば、大変よく納得できる。
その反面、文化は「人間の精神的生活にかかわるもの」という西洋的解釈に光を当てると、なかなか腹の中にストンと落ちない。
なぜなら、存在物の表現だけでよいならば、それは文化でなく文明であってもよいからだ。

私の考えでは、文明は物であり、文化は事である。
この考えを延長させると、文化であるアーキテクチュアは“モノ”ではなく“コト”だと解釈できる。
したがって、アーキテクチュアが文化であるかどうかという議論は、アーキテクチュアの中にある“コト”的様相を見出す作業とはならないだろうか。

モノもコトも多義をもつ言葉である。
しかし、一般的には「物」は私たちが感知でき、認識できる物体を指し、「事」は出来事や人の行為あるいはモノの作用・性質・状態を指すと解釈してよいだろう。
この中でも、「事」に含まれる“モノの作用・性質・状態”がアーキテクチュアの“コト”的様相に関係しそうである。
哲学者の和辻哲郎は『日本語と哲学の問題』(和辻哲郎全集第四巻)の中で、モノとコトについて次のように述べている。

“「あるもの」においては、「ものがある」のであり、ものがあるためには「あること」がすでに予想されなくてはならぬ。
「あること」は「あるもの」の「あること」であるとともに、またある「もの」を「ある」ものたらしめる「こと」である。
かくて一般に「こと」は、「もの」に属するとともに「もの」を「もの」たらしめる基礎であると言い得るであろう。”


 和辻哲郎によれば、モノの基盤にはコトがある。これは鋭い指摘である。
また、モノがあるためにはコトを予想することが前提とも言っている。これまた鋭い指摘である。
この二つの指摘を背景にすると、アーキテクチュアと文化の関係を次のようにつなげることが可能である。

1.アーキテクチュアの基盤には文化がある
2.アーキテクチュアがあるためには文化を予想することが前提として必要である

 すなわち、文化を予想せず、文化を創造しないモノはアーキテクチュアを生むことはできない。
それは単なるビルディングであり、文明である。

アーキテクチュアとは、モノづくりに先立って文化を予想しているコトであり、モノづくりを通じて文化を創生するコトなのである。
アーキテクチュアの本質はモノではない、コトである。
 ところで、コトには「事」以外に「言」もある。この二つをアーキテクチュアに当てはめてみると、こんなことが言えないだろうか。

1.「言」はアーキテクトの言動、価値観、社会理念、目標、夢→文化の予想
2.「事」はアーキテクチュアとしての仕組み、仕掛け、システム→文化の創造

 さらに述べれば、アーキテクチュアのモノとしての側面は技術に支えられている。技術は原理的・法則的・不変的であって非情である。
技術はまた自立していて、孤立した系でもある。
一方で、コトとしてのアーキテクチュアは文化であった。文化は情の集合である。人々の感性に働きかける。

 すなわち、アーキテクチュアは非情な技術と情感豊かな文化とをつなぎあわせる。






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